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先日のこと。とある青年と茶会をした。落ち着いた、というよりは「らしい」喫茶店で、美味しそうな珈琲を淹れそうな男性の案の定美味しい珈琲を一杯と、何本もの煙草で、二時間程話し込んだ。

内容は様々。詳しくは書かないが、あの席の上にはとても好い電波が出ていたと思う。愉しかったのがその証拠だろう。ただ話す、ということを茶化さないで出来る青年はそう多くいるものじゃあないと思っている。有意義な時間だった。少なくとも私には。また新たな、この前とある女の子と酒を酌み交わした時もそうだったが、感覚を教えてもらった。


私は自分の身の上話だったり体験談を、出来る限り悲観していると思われないように話したいのだと改めて感じた。それは強がりや体裁を意識して思うことではなくて、ただ本当に、悲観などしていないから。悪いこともしてきたし、罪深いことも沢山したけれど、それこそそれを私が悲観するなんておかしな話で、かといってこの反省や悔いる気持ちを、鬱々とした様子で話すのはまるで許しを請うているようで嫌だと思う。嘘はつかない、真面目に、でも暗い顔はせずに、先日も話した。互いに、話せていたと思う。


脳味噌フル回転で話し込むのも、酒のつまみくらいの感覚で零れるように垂れ流すように話をするのも、好い。好き。そういうことのできる人たちと知り合えたことも嬉しい。

私にはやはりもう、恋人も恋愛関係も必要ないなと思った。会話のできる人たちがいて、出会ったりもして、それがいい。これは今までの私が気付かなかった類の幸福。


教えてもらった映画、再演してくれないかなあああああ